「第三世多杰羌佛」仏号についての説明#
二〇〇八年四月三日、世界仏教出版社と世界法音出版社によって出版された『多杰羌佛第三世』という記録本がアメリカ国会図書館で厳粛な発表式を行い、アメリカ国会図書館は正式にこの本を収蔵しました。これにより、人々は、長年尊敬されてきた義云高大师、仰谔益西诺布大法王が、世界の仏教各派の指導者や摂政、大活仏によって認証された、宇宙の始祖報身仏多杰羌佛の第三世の降世であることを知りました。仏号は第三世多杰羌佛であり、それ以降、人々は「南無第三世多杰羌佛」と呼ぶようになりました。これは、釈迦牟尼仏が仏になる前の名が悉達多太子であったのと同様で、釈迦牟尼仏が成仏した後に「南無釈迦牟尼仏」と改称されたため、私たちは今「南無第三世多杰羌佛」と呼んでいます。特に、二〇一二年十二月十二日、アメリカ国会上院第 614 号決議が正式に第三世多杰羌佛に「His Holiness」という称号を与えたことで(すなわち H.H. 第三世多杰羌佛)、南無第三世多杰羌佛の称号は確定しました。また、第三世多杰羌佛は政府に法定された名前であり、以前の「義云高」や大师、総持大法王の称号は既に存在しません。しかし、このニュースは南無第三世多杰羌佛の仏号が公表される前に掲載されたもので、その時人々は仏陀の真の身分を理解していなかったため、歴史の真実を尊重するために、ニュースの中では法定前に使用された名前を保持していますが、皆さんは明確に理解してください。H.H. 第三世多杰羌佛の名前は合法的である一方、法定前の名前は既に存在しないのです。
民衆日報
中華民国九十四年十月十五日 土曜日
王篤川居士 命を捨てても心を変えず#
雲高大師を師と仰ぎ、先日逝去 火葬後に 225 個の堅固子を拾得#
【記者陳仁忠報導】四川省新都にある中国の著名な古剎宝光寺で、九月二十九日に雲高大法王の弟子である王篤川居士のために毘荼大典が行われ、火葬後に 225 個の堅固子が拾得されました。
王篤川居士夫妻は大学教授で、退職後に雲高大師を師として仏法を学び、誠実に精進しました。雲高大師が成都を離れた後、王教授夫妻は自ら壇場に留まることを申し出ました。
その間、好意的な人々が彼らに帰宅を勧めたり、脅迫や誘惑をする人もいましたが、彼らは全く動じませんでした。王教授は言いました:「どんな人がどう誹謗中傷しようとも、私は事実を信じるだけです。私は大師に従って数年しか経っていませんが、私が見た大師は善良で正直、光明磊落で、慈悲深い至高の聖徳です。大師は常に大衆の利益を第一に考え、自ら苦しみを受けても、衆生の安寧と幸福を求めました。大師の教えは非常に深く、難しい理論を平易な教えに寓話しており、私たちに教えてくださったのはすべて実修徳行の方法です。彼らが中傷するようなことは一切ありません。私は教授であり、仏教徒であり、虚偽を言わず、私の良心に反することはできません。私はただ私の師に忠実であり、決して師を欺く獣にはなりません!」そのため、数年間、風雨を問わず、噂や中傷、恐怖の脅迫に関わらず、彼らは壇場を一歩も離れず、都市開発のために家がブルドーザーで押しつぶされるまで、涙を流しながらこの場所に別れを告げました。
数ヶ月前、王教授は病状を呈しました。病中であっても、王教授は雲高大師から伝えられた仏法をさらに精進して学びました。九月二十六日の午後、王教授は全く苦痛を感じることなく、右側を向いて仏陀の像を見つめ、安らかにこの世を去りました。二十七日の午前に宝光寺で火葬され、住持の寂心法師が王大居士の装龕を行った際、王教授の手足の関節はまだ柔らかく、寂心法師が確認したところ、彼は言いました:「すでに成就しました、必ず堅固子が出ます。」
二十九日の午後四時半から転咒が始まり、その少し前に空から甘露が降り注ぎ、点火後もしばらく続きました。毘荼の期間中、多くの聖境が現れ、金色の仏像が微笑んでいるのを見た人や、王教授の腹部に金身の羅漢が現れ、僧衣をまとっているのを見た人、仏光を見た人、日月が同時に輝いているのを見た人、仏教を学んでいない人も文字が並んだ呪文を見た人がいました…… その時、場にいた人々は突然、遠くから雲高大師が六字大明呪を唱える声が聞こえ、念仏の声と一体となりました。合計で 225 個の堅固子を拾得しました。